道徳の教科書に載せたい野球選手のエピソード

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道徳の教科書に載せたい野球選手のエピソード

 

斉藤和巳が背番号を66のまま変えない理由

エースに成長した背番号「66」の後ろ姿を天国から見守っている人がいる。
00年2月に亡くなった斉藤の妻・由美さんの祖父、松尾勇さん(享年80歳)だ。
葬儀の際に、勇さんに着せてあげたのが背番号「66」のユニホーム。
斉藤は、今もそのことを忘れていない。

「これで背番号を変えたら、きっとじいちゃんも分からないでしょうから」
その年のオフ、プロ5年目の初勝利でブレークした斉藤は、背番号の変更を球団から打診された。

それでも、勇さんへの思いもあってかたくなに断ったという。
「お盆には報告に行こうかなと思ってるんです」と由美夫人。
球宴に出場した投手の中で「66」は最も大きい番号。
今、斉藤の背番号は文字通りのエースの代名詞となった。

 

夫人のくだり書けないんじゃないですかね・・・?

 

 

中日の星野監督と中村捕手。

かけだしの頃の中村は常に星野にドヤされ続けていた。鉄拳制裁はもちろん、時には、
「おまえなど辞めてしまえ!!」
のキツい一言。

本当に辞めようかと思い悩んでいるところに母親から一本の電話が。
「おまえ最近頑張ってるそうじゃないか。こないだ監督さんから連絡があってね。見所のあるいい選手だからお母さんは安心して見ていて下さいと言ってくれたよ。」

その後、中村は10年近くに渡って中日不動の正捕手としと活躍した。

 

 

宮出の話ハラデイ

 

 

使い続けてくれた監督の期待に応えられなかった内海は、辞任する堀内のもとへ謝罪に訪れた。

そんな内海に堀内は「謝る必要なんてない。俺はお前に夢を見たんだ。巨人軍を再建するには若き柱が絶対に必要なんだ。
お前にはその資質がある。自信が持てない?そんなのは当たり前だろ。お前みたいな何の実績もない奴が自信なんか持てるわけがない。

お前は自分を信頼する必要なんてないんだ。200勝投手の俺を信頼すればいいだけなんだよ

お前には凄い素質がある。俺が言うんだから間違ないよ。申し訳ない気持ちがあるなら、お前の左腕で俺の判断が間違ってなかった事を証明してくれ」
そう言われた内海は号泣し、飛躍することを心に誓った。

 

 

ヤクルトの、相手の嫌な事を徹底して付く戦略

の中でも、シュートは重要でね、
一回終わった投手でも、シュートを自分の源にすることで蘇る。
打者からすると嫌らしい球ですけど、死んだ投手を生き返らせる、戦略ともそれはあっている、
野村監督の再生の要の中の一つでもあり、興味深いですね。

ただ、その分、負担が大きく寿命を減らす、中には野村の投手再生は潰しているだけだ、と言うのもいますけど、投手の生き死にを知らん輩だから言えるのでね、
もう死んだ自分がマウンドで、自分の球、プライドの、自分自身を再び相手にぶつけられる、
投手として生まれ、生きて、死んでも死に切れない、
あの場でまた自分に成れるのならば、どんな代償だって、命も惜しくないんですよ、投手は。

それをね、投手の使い捨てだの何だのと、野村批判がしたいだけなんだろうけどね、投手を侮辱するにも程がある。全く。

 

 

>>5や>>28を見るとなんであんな成績だったんだ?
めっちゃ有能ぽく見えるのに

 

 

>>30
監督ができることって勝ちをこぼさんことしかできんと思うんよ

 

 

 

村田兆治が原因不明の右肘の痛みで何年も苦しんでいた時に、 村田の父親が危篤に陥ってしまった。

村田が急いで父親の元へ駆けつけると、それまで昏睡状態だった父親が目を覚まし、
「兆治、わしの右腕をやる。だから頑張れ」
と、苦しい息の中で村田に言ったという。

村田は父親のその気持ちが嬉しくて涙が止まらなかったそうな。

父親は他界したが、その気持ちが通じたのか、村田は名医ジョーブ博士の手術により
右肘の痛みを完治する事が出来、見事に復活を遂げた。

 

 

 

われ人生 24歳にして尽きる石丸進一(名古屋軍)

内野手としてプロ入りした石丸は、選手不足の穴を埋めるため投手陣に加わる。
強肩と柔道2段の粘り腰で、昭和17年に17勝、翌18年にはエースの座をつかみ
10月12日の名古屋対大和11回戦では、戦前最後のノーヒットノーランを
達成した。

記録達成の2ヶ月後、海軍予備学生として招集された石丸は航空隊に配属され
特攻隊員となった。現役生活はわずか3年で幕を閉じる。

特攻命令が出ると、石丸は仲間と最後のキャッチボールをした。
石丸の球を受けた仲間は、そのたびに「ストライク!」と大声でコール。
それがどんなに外れたボールになっても、あらぬかぎりの声をあげて
「ストライク!」とコールしてあげた。

昭和20年5月11日、出撃の日、石丸は、零戦に愛用のグラブとボールを持って
搭乗した。機体を滑走路に入れたとき、はち巻きをほどいてボールに巻き付け
地上へ投げた。白いはち巻きには

「われ人生 24歳にして尽きる」と書いてあった。

 

 

あるシーズンオフにヒルマン・新庄・小笠原が中学生(不治の病)の見舞いに行った

えらい野球にくわしい子で、病室は野球関係の本でいっぱいだ

「あのね、このピッチャーはねコントロール悪いから初球は見ないとダメなの」
と選手の写真を指差して話す少年

やたら難しい顔してうなずく小笠原
「ふえーそうなんだ?」と(多分素で)感心する新庄
ヒルマン「素晴らしい。これからもハムの007として調査・報告してくれ。頼んだぞ」

そしてヒルマンが、スコアブックを渡して
「君を特別スコアラーに任命する。気がついた弱点を記録して、また報告して欲しい」

 

 

そのあとの談話

「いや~勉強になりました。野球って奥が深いね」
少しもイヤミにならないのが新庄の新庄たる所以である。
「あの子に夢を与えられるように・・・・全力でプレーします」
言葉を搾り出す小笠原。赤い目が万感の思いを語る。
そしてヒルマン
「今日は日本ハムにとって有意義な日。将来の名スカウトを発見した」

 

>>10
えぇな
三者三様で全く違うけどどれも温まるコメント

 

 

中日ドラゴンズの立浪和義選手。

母子家庭に育ち、子供の頃から苦労掛けっぱなしの親に孝行するのは
当たり前の話であるが、彼はポケットマネーで孤児達を球場へ招待し
毎年、クリスマスのは孤児院へ駆けつけて、一人一人に自筆のメッセージカードを
添えてプレゼント。

正月には餅つきとお年玉を振る舞い、野球を教えている。

子供の誕生日には必ず電話と手紙で御祝いのメッセージを送り続けているのだ。
これは彼が20歳である3年目のシーズンから欠かさず続けていることなのだ。

 

 

 

オグリビーが自分のミスで試合に敗けて落ち込んでいたところ、

金村義明や村上隆行などといったチームメイトに風呂に投げ込まれ、お湯を掛け合うなどしてはしゃぎ、励まされた。

「メジャー時代でも白人と黒人が一緒にお風呂に入る事など無かったのに」と言い感激していた。

またその際、あまりの嬉しさに浴槽の中で泳いでいたという

 

 

 

ジャッキーロビンソン黒人初の大リーガーとして登場した彼は、

敵チームどころか味方チームからもいわれなき差別を受けていたが、
不平不満を言わずにプレイに専念する姿に、味方チーム、そして
敵チームからも同じプレイヤーとして認められていった。

そんなある日、彼は審判の判定に抗議して退場を喰らってしまった。
だが彼は、
「あの審判、俺の肌の色について一言も言わずに退場にしやがった。」
と、黒人として差別されずにただの野球選手として退場処分を受けたことを 喜んだということだ。

 

 

 

「素晴らしい野球人生だったと、胸を張れます」藤井将雄(福岡ダイエーホークス)

平成11年、藤井は中継ぎエースとして最多ホールドのタイトルを獲得、師と仰ぎ兄と慕う工藤と、無二の親友の若田部とともに、王ダイエー初の日本一に大きく貢献することとなった。

しかし翌シーズン、藤井は肺ガンに倒れる。
リーグ2連覇の瞬間は病室で見た。自分の背番号「15」を付けたマスコット人形が胴上げされているのを見て涙が止まらなかったという。
その6日後、藤井は天に召された。(享年32)そのあまりにも早すぎる死にナインはさよならを言うことすら出来なかった。

奇しくも日本シリーズ第1戦で投げ合うこととなった
工藤(巨人)と若田部は、藤井の右肩の骨をそっとポケットに忍ばせた。
「全力投球」それが志し半ばで夭折した藤井への、せもてもの手向けである。
藤井が病室で書いた手紙には、ナインへの最後の言葉が書かれてあった。

現在、福岡ドームの15番ゲートは「藤井ゲート」と呼ばれている

 

 

 

ロッテの第一期監督時代のこと。

現役時代から親しくしてる知人の頼みである病院に慰問へ訪れた金田。

「病院はワシ苦手やねん。辛気くさいやろ?」とイマイチ乗り気ではなかった。
病院についてある小児病棟に通された。
そこには12人ほどの子供達がいた。

みんな憧れのプロ野球の監督が来るということで昨日から楽しみにしてたそうで、
みんな笑顔で金やんのこと出迎えた。

それを見て金やん「なんや…病気いうてもたいしたことないんやな」と気軽に考えてた。

慰問が終って病院を去り際に小児病棟担当の看護婦から挨拶された時、
看護婦は金やんにこう言った。

「みんな白血病や小児ガンという不治の病を抱えてるんです…。
でもみんな希望を持って明るく生きてます。
本日は金田さんおこし願えてみんな感激してますよ」と……。

それを聞いた金田はそのまま床にへたり込んで人目も憚らず号泣したそうだ。
「ワシはこの年になって初めて命の尊さを教えてもらった…」

それ以後金田は不治の病で苦しむ子供達のためのボランティア活動に邁進するようになり、
それは名球会の活動の一環としても行われている。

 

落合と稲尾のエピ好きだけど
文才ないから辛い

 

 

ヤクルトの宮出さん。

3年くらい前のオフシーズン、バイト先の牛丼屋によく来てたんだが、
酔っぱらってちょっとうるさかった大学生風の4人組の一人がカウンターでゲロ。

仲間連中がみんな引きまくっちゃって、あーあお前どーすんだよバカって感じで放置状態。

他のお客さんも牛丼残して席を立つ中、斜め向かい側に座っていた宮出選手が

「君、大丈夫か?全部出しちゃった方が楽になるぞ?」と肩を貸してトイレまで連れてってあげてた。
水持っていってあげたり、背中さすってあげたりで何度もトイレとカウンター行ったり来たり。
やっとバカ大学生風の仲間達も「俺達がやります」って。

 

俺が戻したアレを処理しようとしたときも手伝ってくれようとしてくれたよ。

ゲロ処理なんかも終わって一息ついたら自分の残ってる牛丼食べようとしてたから、
俺、迷うことなく新しくホカホカの牛丼と味噌汁を出させてもらったよ。

そしたら「大変だったのに申し訳ないね、残したみたいになってすんませんね」なんて言ってんだ。
今時珍しく良いお兄ちゃんだなあ、って思って次の日先輩にその話したら

「ああ、いつも○時頃にあそこに座って、アレとアレを注文する人?あの人いい人だよな。
あれでもあの人プロ野球選手だぞ?ヤクルトのピッチャー、知らない?」だって。すげえビックリした。
当時野球なんて全然知らなくて巨人の有名選手とかくらいしか知らなかったから。

俺が野球板に来るようになったきっかけの人。ガンバレー!

 

 

工藤が手紙を返信したエピソード好き

 

野村再生工場のシュート好き

 

 

稲尾さんがある日、

いつものように試合から1時間以上もたって
ようやく球場を後にしようとしたとき。

掃除のおばさんが「まだ残ってる選手がいて掃除ができない」と
ボヤいているのを耳にしました。

こんな遅くまで、誰が残っているのだろう?ロッカールームに行くと、
そこでは落合が大鏡に向かって、ひたすら素振りをしていたそうです。

人目を避けて黙々と練習する落合に苦悩を見てとった稲尾さんは、


「オチ、お前今当たっていないけど、

お前が4番を外してくださいと言わん限り、オレは外さんからな」
と、落合に声をかけたのです。

落合の不振はその後も続き、

コーチからも落合を4番から外すよう進言されたものの、
稲尾さんは頑として聞き入れず、落合を4番で使い続けました。

落合自身も、ついに最後まで「外してください」とは言わなかったそうです。

この年、落合はシーズン後半から復調して打ちに打ちまくり、

オールスター以降の打率は4割をマーク。

シーズン打率も最終的には3割台に乗せました。

 

 

落合が室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、
指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまったことがありました。
その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物がーーー

 

落合が稲尾さんを師と仰ぐきっかけになったと言われています

 

日本ハムが3球団目。
チームを渡り歩いても、欠かさずに行う“内職”がある。
遠征中などの空き時間を利用して、自分のプロ野球カードにサインする。
「♯○○○」と通し番号を記し、1枚ずつ100円ショップで買った透明のナイロン小袋に入れている。
「移動中とか、サインを書けない時に、ファンに渡せるように持ち歩いているんです。」
昨季は約4000枚を配った。

巨人とオリックスでは、球団からシーズン前に各選手に1000枚配布されていたという。
しかし、日本ハムでは配られないことを知り、手を打った。
同カードを発行する会社の関係者に「お願いして、まずは1000枚発注しました。」
サインを書くのは、1日50枚と決めている。
約10分間の地味な作業も「苦にはなりません。そういうのが好きなので」と、率先して取り組む。

 

 

 

ケッペルのスピーチ

本日はこのチャリティー試合にお越しいただき、有難うございます。
日本でプレーする選手の一員として、この場に立たせていただけることに感謝しています。

日本という国は、私にとって特別な国です。初めて来日したのは20年前ですが、昨年一年間を通して素晴らしい多くの都市を回ることができました。
そして、私の妻、二人の娘もこの国を大好きになり、今や日本は私達にとって第二の故郷となりました。

苦しい状況の中にこそ、真の価値が問われるとよく言われます。
今、私達はこれまでに想像もできなかったような、悲劇に見舞われています。
しかし、私は日本の力を信じています。今こそ私達は一つとなることができ、この困難を乗り切れると信じています。

地震や津波で被災された方々へ、私も本当に心を痛めております。
全ての人たちの支援の心によって、これから新たな未来へ希望をつなぐことができるようになると信じています。

一緒に戦う選手の皆さんへ いつも球場の内外で様々な活動をし、一生懸命プレーする姿に感銘を受けています。
我々は、野球選手となれる才能を与えられました。
しかしそれに加えて、自分の潜在能力を最大限に引き出すために毎日一生懸命に練習をしています。
だからこそ私達は野球を通して、ファンの皆さまに幸せ や夢を与えていることができるのだと思います。

ファンの皆様、日本の皆様へ。
小さくとも、個々の力を結集すれば、それは何よりも大きな力となります。
募金をしたり、労力を捧げることのみならず、小さな笑顔を忘れないことなども、大きな手助けとなるはずです。
日本でプレーをする外国人選手の一人として、私にできることは全てやる覚悟をもっています。
皆が結束力を高めることで、強いコミュニティーを作り、そして日本の再生の力となっていくと信じています。

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